瀬戸市

瀬戸のマスターピース「馬の目皿」を歴史から紐解く

ダートフリーク本社のある瀬戸市と言えば「せともの」が有名ですが、せとものと聞いて何を思い浮かべますか? 陶器、磁器、陶製人形……その実態は多種多様です。今回は、渦巻き模様が印象的な馬の目皿を作る「本業窯」に注目。本業窯と馬の目皿の歴史や特徴を紐解きます。

せとものと本業窯の歴史を学ぶことができる「瀬戸・ものづくりと暮らしのミュージアム『瀬戸民藝館』」

瀬戸本業窯八代目水野雄介さん

今回取材したのは瀬戸で約250年続く「瀬戸本業窯」。せとものとは何か、本業窯はどのように続いてきたのか、八代目の水野雄介さん(以下:水野)にお話を聞きました。

“せともの”の誕生。人々は良質な土を求め瀬戸に来た

焼き物の発祥は2000年も昔になります。日本人がオリジナルで考案して作った焼きものは縄文土器と弥生土器で、以降は中国や朝鮮など大陸の影響を受けていきます。現在の瀬戸市に焼き物文化が伝わったのは平安時代中期。人々は良い土を求めて瀬戸にたどり着いたと言います。

「陶邑(すえむら:現在の大阪府いずみ市)に渡来人が拠点を作って焼き物を始めると、その後は東山(現在の愛知県名古屋市千種区)にその中心が移っていきました。どのように移ってきたのかについては確かな証拠がありませんが、史実に基づいた説によれば最初は大阪で、次に名古屋の東山という地域で窯を築き、焼き物が始まったといわれています。その後、愛知県の日進、長久手という順で焼き物の窯場が移動してきて、平安中期に瀬戸にも伝わってきます。その範囲は猿投古窯群と呼ばれています。よく瀬戸で焼き物が誕生したと勘違いしている人もいるのですが、実際は瀬戸に焼き物文化が入ってきた、ということになります。また、”移動してきた”と表現したのは理由があって、現代こそインフラが整備されていて運ぶことができますが、昔は運ぶ手段がないので、人が自ら適した場所に行って仕事をしていました。つまり、定住ではなく小移住をしてたということです」(水野)

なお、日本全国には瀬戸と常滑以外にその同じ時代にスタートした焼き物の産地が4カ所あります。福井県の越前焼、滋賀県の信楽焼、兵庫県の丹波焼、岡山県備前焼き、そして瀬戸と常滑。これらはまとめて六古窯と呼ばれ、日本で焼き物を作る代表的なエリアとして確立していきました。

「現代は作家さんが自分でこういうデザインやものを作ろうと、思考からものを作っていますが、せとものは元々その土地に素材があったことが始まりで、それをうまく取り入れて加工して暮らしの中にどう取り入れるかというところがあります。人の意識の前に、素材が物作りの仕事を起こした、ということです」(水野)

せともの最大の特徴は、粘土の白さと釉薬

瀬戸に人々が移動してきたということですが、なぜ人々は瀬戸にたどり着いたのでしょうか。その理由は土にありました。

「瀬戸で焼き物が盛えた理由は良い粘土があるからです。当時の人がどうやって瀬戸の土の良さに気付いたかはわかりませんが、良い粘土があるから瀬戸に来たんですよね。すごいことです。瀬戸の土の最大の特徴は色が白いということです。日本では茶色い粘土が多い中、瀬戸の土の色は白。これは先ほど述べた六古窯の中でも瀬戸だけになります。なお、伝説によれば瀬戸の陶祖・加藤藤四郎がはじめに瀬戸の土の良さに気付いたと言われています。その特別な特徴を瀬戸の人々は生かしていきます。その一つが馬の目皿です。土が白いということは表面に絵を描くこともできる。この特徴が馬の目の模様に繋がってきます」(水野)

さらに、せとものの特徴はもう一つあると言います。

「せとものではガラスの皮膜となる釉薬(ゆうやく)をつけています。これは焼き物が始まった当初から、瀬戸だけが意図的に使用していました。その効果は光沢が出て見た目が綺麗になることや、耐久性が上がるという質の向上にありますが、特に耐水性が一番の強みとなります。当時の焼き物は耐水性がなく水が染みやすいため、水を飲むコップなどは土ではなく木で作られていました。しかし、耐水性のある釉薬を使うことで焼き物でも水が飲めるようになります。つまりせとものの誕生以降、焼き物の実用範囲がぐっと広くなったのです」(水野)

せとものの歴史から見えてくる、焼き物と生活の関係

平安時代後期に始まったせとものは、その後どんな歴史を経て今に至るのでしょうか。水野さんに聞くと、予想を大いに超える波瀾万丈な変遷が感じられました。

「簡単に説明するのは難しいのですが……時代の流れをターニングポイントを絞って振り返ると、平安時代に始まったせとものは、鎌倉時代になると幕府からの注文がたくさん来るようになります。そこで運用資金を得ることで技術革新が起き、一気に発展をしていきます。一方で、幕府のためだけに作るのではなく、一般民衆のための簡素な焼き物にも手を広げていきます。それが山茶碗と呼ばれる焼き物で、これはあえて釉薬をかけずに作っていました」(水野)

なお、鎌倉・室町時代に作られた施釉陶器を総じて「古瀬戸」と呼び、せとものの土台を作った時代がこの古瀬戸の時代となります。

「次の戦国時代では織田信長や豊臣秀吉の時代がきます。特に豊臣秀吉の時代になると、豊富秀吉・千利休・千利休の弟子の古田織部が揃い、武士がお茶事(おちゃじ)をたしなむ文化が一気に花開きます。古田織部はお茶やその道具が好きで、瀬戸の陶工にお茶碗や茶道具を作ってくれと頼んだため、ここでも需要は高かったのです。安土桃山時代には武士たちのためのお茶湯の文化が確立され、その需要の高さが感じられます」(水野)

本業窯が誕生、しかしすぐに磁器の波が押し寄せる

江戸時代になると、民主商人たちが活躍する時代への変化に合わせて、一般化した焼き物を作るようになっていきます。馬の目皿を作る本業窯が誕生したのもこの時代。しかし、そこからは苦難の道だったと言います。

「これまで焼きものの歴史を話してきましたが、江戸時代に入ってようやく我々の本業窯が誕生します。しかし、これまで陶器のみ作られていたところに、磁器が新たに伝わってきます。瀬戸の陶器は白く、当時としては珍しいものだったのに対して、磁器はもっと透き通っていて、さらに薄かったのです。これまでにはなかった新しいものが入ってきたと、みんなの目が一気にそちらを向き、明治時代になると陶器を作る窯がだんだんと減り、磁器製造者が増えていきます。せとものを作る瀬戸・洞地区の中に陶磁器を作る窯が63軒あった中、磁器が登場して以降は陶器を作る窯が17か所、磁器を作る窯が36か所になり、その図式がガラリと変わりました。なお、現在はせとものには”本業焼”と”新製焼”という分類がありますが、元々この2つの言葉はありませんでした。なぜなら瀬戸には陶器しかなかったから。しかし、磁器が伝わってきたことで焼き物の種類が2つになったので、元々あった陶器のことを”本業”、新しく九州の方から伝わってきた磁器のことを”新製”と呼び分けられるようになりました」(水野)

なお、本業窯は現在瀬戸で数少ない本業を作り続けている窯元です。

「現代はインフラが確立され、近代化や機械化によって物量が飽和したことで、好きか嫌いかでものを選ぶようになってきています。土地と紐づいてる仕事が減ってきているからこそ、僕らはせとものをちゃんと伝えていかなきゃいけない。伝えていく責任がうちにはあると思っています」(水野)

窮地を支えたのは民藝だった

磁器の登場によって、陶器を作っていた人の中には転業者や廃業者も出たそう。しかし、本業窯は変わらず、陶器を作り続けていこうと決めたと言います。しかしそれは苦難の道となりました。

「磁器が伝わって来て以降、産業革命によって近代化も進みます。もれなく瀬戸もそれを取り入れていくので、私たちがやっているような手仕事は、その時代で途絶えたと言ってもいいぐらい極端に減ってしまいました。また、アルミやステンレスなど、新たな素材が出てくるので、焼き物を作る僕たちに対してさらにニーズが減っていき、他の選択肢も増えてきました。我々はそれを今でもなんとか、最後の砦としてやってるっていう感じなんです」(水野)

苦難の道を選んだ本業窯は一時後継者もいない状態に。しかし、この窮地を支えたのが民藝だそうです。

「当時本業窯の代表だった先代や後継者の父は段々と焼き物は難しくなっていくだろうと想像し、祖父は若い頃に瀬戸から離れて中央大学に行き、弁護士になるんだと法学部に行きました。つまり、もう家業を継ぐつもりはありませんでした。

しかし、その時に太平洋戦争が起こり祖父の学業は中断。祖父は戦地に行くことなく終戦したため命は長らえました。終戦後の日本は空襲で生活が壊れたので、水瓶やすり鉢、こね鉢など、我々本業窯が手がける生活必需品に対して特需が起こりました。祖父は一度は本業窯を離れましたが、特需が起きて忙しいからと手伝いに戻ることになります。

祖父はもうやるつもりはないのに……という気持ちでいたそうですが、そんな時に民藝運動の提唱者である柳宗悦から『瀬戸でまだ登り窯を使っているそうじゃないか、調査しに行きたい』と電話が入ったそうです。祖父は柳さんの本を読んでいたりして知ってはいたのですが、まさか本人から連絡が来るとは思いませんよね(笑)。柳さんを通した民藝との出会いから、祖父は本業窯での仕事はものを作るということだけではなく、精神性であったり宗教や哲学にも関わることなんだという、新たな境地を見出すことができて、ならばこの仕事は絶やしてはいけない! という気持ちが強くなり家業を継ぐことを決断したと言います。辞めるか続けるかという窮地だったので、ここで柳さんからの連絡がなかったら存続していなかったかもしれない。そんなターニングポイントだったんですよね」(水野)

民藝館内。馬の目皿などさまざまな器を見て購入することができます

 

民藝館2階は展示スペース。実際に器が生活に溶け込む様子を感じられます

なお、民藝について水野さんは「民藝とは何か、というのは人それぞれの解釈で、100年経った今でも答えが出ずにいるものです。いろんな答えがあるし、今でも民藝運動というのは進行形で、時代によって話している内容が違うこともあります。ただ、その中でも一貫して大事にしてることはこれだよねという軸を私たちはぶれさせないようにしています。物は人と人の間にあるきっかけにしかすぎない、物は人が使う生活をするためにあるもの、ということですね」と語ります。

本業窯が手がける「馬の目皿」とは

これまでせとものの歴史を見てきてわかるように、馬の目皿はせとものを語る上で外せないものです。その特徴を改めて聞いてみると、生活や需要に寄り添った理由がありました。

「馬の目皿はこの瀬戸・洞(ほら)地区で生み出され、作り続けてきているものです。個人で作ってきたというよりは、地域で作ってきたもので、うちもその中の1つだったのですが、今は他に窯が少なくなっています。馬の目皿の裏を見ると、窯印や製造者の名前が書いてありません。これは、個人ではなく地域で作っているという意識もありますが、使うために作っているのだから名前を入れる意味は無いという考え方が表れています」(水野)

また、デザインは渦巻き模様が特徴的です。なぜこの模様になったのでしょうか?

「なぜこの模様になったかというと、せとものへの需要の高さがあります。当時瀬戸はたくさん材料が取れたので、その分大量の注文がきていました。そうすると1つに時間がかかるデザインだと、効率も悪く需要に対して供給が追いつかなくなってしまう。そこで、いかに精度や速さを上げるかを考えた結果、描き方にリズムがあって、手の動きが単純なあの模様が生まれたといいます。馬の目皿は鑑賞用や飾るためのものではないため、凝ったデザインというよりも生産性や効率を上げる模様となりました。ちなみに、この模様を描く人には専門の職人がいて、1つのお皿につき1分15秒ほどで描き終えてしまいますよ」(水野)

一本槍にならない、多種多様な強みをもつ「せともの」

瀬戸に実際に足を運ぶと、瀬戸の人たちは自分たちにできることを極めてきたため、良い意味で他人に無関心だという話を聞きます。その姿勢はせともののあり方に大きく表れているとのことです。

「瀬戸焼きやせとものという言葉は、ある世代の人たちの中ではすごくポピュラーなんですけど、僕たち世代は自分たちが作るものをせとものや瀬戸焼きと呼ばないんです。例えば私たちは”本業窯の〜”と言いますし、中外陶園さんに行けば”招き猫”という言葉がまず出てきますし、MMヨシハシを手がける吉橋さんのところに行けば、”石膏型”と言います。これは、私たちがこれまでの歴史を生き残るために、”みんな一緒”ではなく、”あの人たちとは違う”という点に、強みを見出して生き残ってきたからです。個々が違う強みを持って自分のポジションを確立してきたので、”せともの”という言葉があっても、一つの共通したものにはならないんですよね。客観的に見たら、瀬戸焼きの本業窯さんですよね、となるのですが、私たちはそういう風にものを見ていないということです。

他の産地では、例えば備前焼という言葉のもとにその特徴があって、統一性を感じると思いますが、瀬戸は多種多様です(笑)。ただ、一つ共通して言えるのは、みんな粘土が同じということなんです。誰であろうと、瀬戸の山で採れる土を使っている。加工して違う種類の物になっていますけど、元はそこで、一緒だということです」(水野)

せとものに代表的なものが無いのは、個々がそれぞれの強さを身につけてきたから。現代にまで残り続けるその強さが感じられます。歴史を軸にせとものを紐解くと、長い歴史を乗り越えてきたからこその特徴や魅力が見えてきます。瀬戸という街でその魅力を感じてみてはいかがでしょうか。

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アニマルハウス

世界でも稀な「オフロードバイクで生きていく」会社アニマルハウス。林道ツーリング、モトクロス、エンデューロ、ラリー、みんな大好物です。

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